ふるさと鳩ケ谷の会第2回総会・記念講演 縦書き by 涅槃
『住民が主人公』のまちづくり・地域づくり 二〇一四年二月二二日 長野県木曽町前町長 田中勝己 私は30歳の時に身代わりで町議選に立候補し、ビリで当選してしまい、知らせを聞いた時は腰を抜かすほど吃驚しました。 1.地域で村おこし 町議4期目、若者が都市へ出て行き、農村が衰退していく状況に危機感を抱き、「故郷を何とかしたい」と村おこし運動を始めた訳です。私の住む650戸程の黒川地域をまとめて『ふるさと地域協議会』を作り、色々な運動をやりました。私も蕎麦の店を作って、町会議員をやりながら、町長になる直前まで蕎麦を打ちました。 また、故郷に自信を持ってもらおうと、「ここは田舎だけど、良い点を探し、それに磨きをかけて輝かすことが必要」と話し、30数人のおばちゃん達と弁当持ってバスに乗り、地域をつぶさに見て回りました。黒川地域は石仏が非常に多く、特に双体道祖神(男女が手をつないでいる石仏)が18あり、うちの町が日本一の石仏の町だと思いました。あるご婦人が、「隣村から嫁に来て20年。私がこんなにすごい石仏のある所に住んでいるとは知らなかった」と、ボロボロ泣いて感想を話してくれました。みんなは本当に感動し、故郷を見つめ直すきっかけになりました。 それから、地域にある江戸時代からそのまま続いている“農村風景”を残そう、という運動もしました。 『ふるさと地域協議会』は、木曾地方の村おこし運動の先駆けになりました。 こうした活動が評価され平成10年3月、木曽福島町長になりました。 2.オウムとの闘い 町長になって最初の仕事が、前町長が隠してきたオウムと闘うことでした。オウムは全国に18の拠点があり、木曽福島にも診療所がありました。行政として“オウムと闘う”と宣言したのは、木曽福島町が全国で最初でした。私もオウムに狙われないか心配しましたが、町をあげてオウムとの大闘争をやりました。半年過ぎたら視察に来る自治体があり、その自治体も地元に帰って次々に闘いを宣言。オウムを追い込んでゆきました。 3.村おこし運動 ほとんどの自治体では、市や町の総合計画はコンサルタント会社が作っています。うちの町も同じでした。ですから私は、町長になってすぐ、「町の総合計画を町民の手で作り直そう」と提案。そしたら、96人が手を挙げました。96人を三つのグループに分け、国土庁に派遣してもらった専門家も入って町を見て回り、研究・討議し、町の素晴らしいところ、行政がやった良いことを全部洗い出し、直すべき点などもまとめてもらいました。1年間やって、それぞれに発表してもらい、その発表を基に総合計画を作りました。これが、木曽福島町長時代の最大の仕事で、私が町民の皆さんに一番評価されたことだと思います。 4.通産省が注目した事業 町民が一番心を痛めているのが「旧市街=関所時代から続く商店街が、シャッター通りになること」でした。それで、当時、国がすすめた『中心市街地活性化事業』に取り組むことになり、この計画も町民に手をあげてもらって、その人達に作ってもらいました。後に、通産省は「この事業は失敗」と総括しましたが、通産省が調査に来て、「数少ない成功した町」として木曽福島町を評価しました。なんで、成功したのかというと、結局、町民が主人公になったことで出来たんです。 先ごろの川口市長選挙の投票率が27%だと聞いて私、吃驚しましたが、これは、ほとんどの市民が市政から疎外され、外されていることの現れだと思います。これは、市政の責任だと思います。 5.合併しても自治の輝くまちに 2期目の町長選挙の前に合併問題が出ました。私は、町村合併に反対でしたが、後援会に相談したら「反対したら(選挙で勝つのは)大変だヨ」と言われて考え、悩みぬいて出した結論は、①合併は“住民投票”で決める。②合併したら、“合併してもなお、自治の輝くまち”を作る。この二つを掲げて戦い、私が勝ちました。 さて、合併を住民投票で決めるのは良いが、住民投票では「合併賛成」が多数になるのは見当がつきました。ですから、“合併してもなお自治の輝くまち”をどうやって作るのかと4カ月、本当に悩み、勉強しました。そこで得た田中流の方針は、①基本は「町政の主人公は住民」を貫く、②そのために「情報公開」を徹底する、この2点です。計画段階から情報を公開し、住民の討論を通じてまちづくりをやるのが本当の民主主義ではないか。もう一つは、行政内分権=旧町村の地域に権限を下ろしていく。こういう立場で木曽町の「まちづくり条例」を作りました。 【質問に答えて】 質問1.まちづくりでの自治会と行政との関係 自治会は、行政のお手伝いと地元の利益を代表する二つの側面があります。木曽町では、合併した旧四町村ごとに『地域自治組織』を作りました。自治会も一構成団体として参加しています。一昨年、町が総合コミュニティーセンターを作ると発表したら、ある『自治組織』が反対運動を起しました。アンケートをとったら反対が多数で、町長の私が白旗を上げました。私は「町の原案は白紙に戻します。皆さんでどうするかを考えて下さい」と提案し、「それを考えてくれる人は、手をあげて」と呼びかけました。64人が手を上げて検討委員会を作り、会長には反対運動の先頭に立った人がなりました。一年検討して出されたものは、町の提案とほとんど同じでしたが、皆さんの心がこもっているだけ素晴らしいもので、一年間延びましたが、良い結果になりました。 質問2.『いのちの交通網』について 木曽町の交通システムを私が『いのちの交通網』と言ったら、朝日新聞に大きく書かれ、全国から視察に来られました。木曾町は、高校・役所・病院、みんな木曽福島にあります。一番遠い村から木曽福島までバス代が1560円かかります。「一つの町になるならこれを何とかしてくれ」と、声があがったので、交通網対策協議会を作って四年間、検討しました。この協議会に法に基づき国交省の役人に参加してもらいました。その役人が「赤字になった分の8割を国が特別交付税で補填するという省令がある」と言うので、それを前提にして交通システムを計画し、申請しました。今、特別交付金が1億円来ます。片道200円で乗れます。70歳以上のお年寄りは定期券が1ヶ月800円です。「この制度はいつまで持つか分からないけれど、国がやってくれる内はやろう」と、町民と話し合って始め、大変喜ばれています。 以上
ふるさと鳩ケ谷の会第2回総会・記念講演 縦書き by 涅槃